W610Q75_キリスト教8

人生をよりよく生きるためには、死への考え方は欠かせません。もし死んでしまうことが、ただの無になることだったとしたら、何か今生きていることも虚しく感じるからです。

ある意味、死を見つめることは、生を見つめることと同じ意味だと言っていいでしょうか。人の生きる道において、死生観というものは大変重要です。

仏教とキリスト教という全く違う宗教において、人が死生観を考えるヒントは何かあるでしょうか?もちろん、あるんです。仏教において、死とは今現在の死だけを意味しません。

なぜならば、輪廻転生が基本にある仏教においては、過去世・現在世・未来世という3つの基軸があるからです。こういった話をたまに聞くことがありませんか?

「あの人とは、前世で何か関わりがあったかもしれない」や「来世でまた会いましょう!」などです。これらは、あくまで仏教の考え方であり、現在の命とは別に過去・未来のそれぞれの命があることを前提としているのです。

このこと自体が、人の死生観にどんな影響を及ぼすのでしょうか?かなり単純に考えると、多くの人は、来世は天人界かせめて人間界に生まれ変わりたいと思うでしょう。

善行を積めば、この輪廻転生においてこの2トップの世界に生まれ変われる!ということが、人生をよりよく生きるモチベーションになるのです。逆に、悪い行いをすると畜生界や餓鬼界など、とても怖い世界に生まれ変わらなければいけません。

人の死生観において、仏教がもたらす影響としては、なんといってもこの輪廻転生の考え方がとても大きいのです。また、絶対的な神の存在はないので、仏教においてはひたすら自ら悟りを開く努力をすることが必要になるのです。

一方、輪廻転生が全くなく、一度きりの命であるキリスト教にとって死ぬことは、永遠の安息を得られる天国へ行くことです。もともと、仏教とちがいキリスト教は肉体にそれほどこだわりません。

生命の考え方にしても、キリスト教にとっては肉体はあくまでも、魂が入った仮の器という認識があります。神によって与えられた肉体で人生を終えた魂は、また神のもとに戻っていき、永遠の安息を得るのです。

この与えられたものである、という考え方がキリスト教の死生観を決める最大のポイントになります。与えられたものであるにも関わらず、悪行を行ったり、神を信じなければ人は地獄に行きます。

キリスト教における死生観の基本としては、神のもとに行くその時までに、どれだけ神の意志に沿うように生きれるか、が個々人のテーマになるのです。

話は変わりますが、日本人はご遺体というものにとても執着します。例えば、天災があって親族を亡くした人がずっと遺体を探し続けるという話は珍しくありません。

しかし、キリスト教徒が多い欧米は、肉体は器で魂こそがその人と考えるので、それほど遺体に執着しません。肉体をもって永遠に生まれ変わる仏教と、一度きりの肉体が終われば、魂は永遠に安息するキリスト教。

その死生観はかなり違ったものになるのかもしれません。ただ、現実的には、この世での様々な出来事や環境が個人の死生観を幾度も変えていきますので、どの宗教だからこの人の死生観はこれ、とは決められないのは言うまでもありません。