
仏教における煩悩は、キリスト教では原罪がそれらしきものでした。もちろん、宗教が違えば、概念は全く違いますが、なんとなく対応するものというのはあるものです。
そう考えていくと、仏教における最終目標である悟りを開くという概念は、キリスト教において同じようなものはあるのでしょうか。
そもそも悟りを開くというのは、長い修行の末に仏になるために必要なものです。さらに言えば、仏教には自力仏教と他力仏教があることはご存知でしょうか?
自力とは文字通り、自力で修行にはげみ成仏するための仏教です。このためには、人は社会生活をすべて捨てて出家して、厳しい修行に励まなくてはなりません。
しかし、誰もが自力でこんなことが出来る筈もありません。あまりにも厳しい、仏教修行の反発として現れたのが、他力仏教です。他力本願の四文字熟語のもとにもなっています。
これは、簡単に言えば念仏仏教であり、だれでも南無阿弥陀仏さえ唱えれば、成仏できるとされる仏教です。かなり簡略化されたものですが、仏教に失望していた人にとって、この他力仏教は受け入れられたのです。
他力仏教の凄いところは、念仏によってとりあえず極楽浄土へ行き、そこで修行しようよ、という後追い修行への道を開いた点です。現世で出家して修行するのは、大変な人でも、極楽浄土なら何の制約もなく修行にはげめるというのが本質です。
自力であれ、他力であれ、仏教の本質は最終的には自分自身で救いを勝ち取ろうという姿勢です。悟りを開くというのは、救いを求めることですが、仏教においては自助努力が要求されます。
救いを求めるという意味では、キリスト教も最終目標は同じです。悟りを開くと同じではないですが、似た意味でいえば、キリスト教では「悔い改める」ということがそれに当たります。
人間は原罪によって、もともとどんな人間も罪を抱えているとされます。そして、さらに神の子であるイエス・キリストがこの世に現れて、人によって十字架にかけられたことも悔い改めの必要性を高めました。
人間の身代わりになって、罪を背負って死んだイエス・キリストは、自助努力では救うことが出来ない人間の罪の奥深さを表しています。
仏教のように、修行すれば救われるという自助努力概念は、キリスト教にはありません。ですので、キリスト教では、神に対する信仰をより強く持たなくてはならないのです。
弱く、罪を背負った人間は、神への信仰を通してのみ強く生きられ、そして最終的に天国へいけるのです。かつて何かの罪を犯した人でも、洗礼を受けて神を信仰すれば、それまでの罪は洗い流されると考えられるのがキリスト教です。
どこまでも、自分の修行の力で救われようとする仏教と、神を信じることによってのみ救われるキリスト教、救いというポイントから見てもかなり違う二つの宗教の面が見られます。
しかしながら、念仏によって阿弥陀仏の力で極楽浄土へ行こうとする他力仏教は、祈りによって神への信仰を表明し天国へ行こうとするキリスト教と重なる部分がることはとても興味深いところです。
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