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除夜の鐘を108回鳴らすのは、人間の煩悩の数だけ鐘を打ちそれを滅するためという説があります。仏教において、煩悩という概念は有名です。

煩悩とはそもそも、悟りに至る修行の邪魔になる、人間に備わった欲望のことです。たとえば、受験勉強を修行とするとテレビを見たい、友達と遊びたい、お菓子を食べたいなどなど勉強の妨げになることを考えるのが煩悩になります。

ある意味煩悩を打ち消すと、人間らしさがなくなるという説もありますが、あくまでも仏教的にいえば悟りを開くために妨げになるものを一般的に煩悩と呼びます。

ここで気になるのは、仏教的なこの概念はキリスト教で言うとどんなものか、ということです。人間が生れながらに抱えているあまりよろしくないもの…です。

これは、キリスト教的には原罪にあたるのではないでしょうか。原罪とは、生まれつき備わった神に背く行為のことを言います。元をたどれば、アダムとイヴの話に根拠があります。

キリスト教における人間と神との関係において、もっともやっていけないのが神様を疑う行為です。しかし、神が想像した人間であるアダムとイヴは神の言いつけを裏切り知恵の実を食べてしまい、エデンから追放されます。

この裏切り行為を、一般的には原罪と呼びます。キリスト教的には、この原罪を抱えた人間たちは、神に対して贖罪しながら生きる必要があるのです。

そして、そのために7つの大罪といわれる、傲慢・嫉妬・憤怒・怠慢・強欲・暴食・色欲という行為を罪として、清く正しく神の定める生き方にしたがい生きていくのが良いとされるのです。

仏教の煩悩には、108の煩悩があるとされます。しかし、その中でももっとも大きいものは3毒と呼ばれます。それが、貪欲・瞋恚(しんに)=怒りの心・愚痴です。大きな意味では、キリスト教も仏教もやってはいけないこととして、同じような行為を指定しています。

同じような禁止行為ですが、二つの宗教間では明確な違いがあります。それは、誰との約束であるかです。キリスト教は、いうなれば、神と人間の上下関係のある契約です。人間は神に対して、その生の初めから罪を負っているので、贖わなくてはならないです。

一方仏教は、誰かと人間というものではありません。あくまで、仏教の最終目標は解脱です。輪廻転生から外に出て、仏になることが最終目標になります。

ということは、その解脱するまでの間にその修行の妨げとなる煩悩は、抑えるべきですよ、というブッダからのアドバイスといえるものです。つまり、キリスト教ほど、厳しくはないのです。

もちろん、僧侶ともなると、煩悩は厳しく禁じられますが、信徒などにとってはよりよく生きるためのまさしく助言といえるようなものです。

一神教であるキリスト教の、神との関係性における圧倒的な約束事である原罪。解脱に至るための、自分自身の修行における妨げを抑えるための煩悩。どちらも禁止内容は同じようなものですが、その根本概念は随分異なります。