無宗教だからこそ知っておきたい!仏教とキリスト教の違いとは

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仏教においては読経、キリスト教では聖歌や讃美歌があります。あきらかに音楽と結びついているのは、キリスト教のほうです。しかし、仏教もリズムを打ち鳴らしながらお経を読むので、それなりの道具が必要です。

仏教とキリスト教を比べたとき、楽器としてそれぞれ何が出てくるでしょうか。やはり一番メジャーなのはキリスト教における、パイプオルガンではないでしょうか。

教会に鳴り響く厳かなパイプオルガンの音色、といえばなにか世界遺産の一場面を想像してしまいます。パイプオルガンの旋律にのって、聖歌や讃美歌を歌うのは、チャペル式の結婚式でもよく見る光景です。

しかし、最初からキリスト教にパイプオルガンのような楽器が導入されていたかといえば、そうではありません。初期キリスト教は、古代ユダヤ教の流れを受けて、偶像崇拝を禁止していました。

今のように、例えば十字架であったりマリア像であったり、また、神などを目に見える形で表してはいけなかったのです。だからこそ逆に、アカペラで歌う音楽がとても重要だったのです。

なぜアカペラかといえば、偶像崇拝という概念に楽器という物体も入るからです。楽器を奏でて、祈りを歌ったりする行為は、当時は禁止されていたのです。

しかし、9世紀に入りキリスト教のベネディクト会という修道会の勢力が、勢いを増してきます。このベネディクト会は、オルガンという楽器を積極的に導入します。

ベネディクト会の発展と共にパイプオルガンも、大きく発展していきます。最終的には、各地の修道院に広がり、讃美歌や聖歌を歌うときには欠かせない楽器になっていったのです。

キリスト教のオルガンはあまりにも有名です。しかし、仏教において、キリスト教のパイプオルガンのような楽器はあるのでしょうか?

楽器というと誤解を受けるかもしれませんが、リズム楽器として見ると、鐘と木魚が仏教にとっては、あえていうなら、楽器と言えます。

特に木魚は、近年、和楽器ミュージシャンの楽器として使われたり、スリットドラムという名称で民衆音楽にも登場します。鐘は音楽としては…ですが、仏教には欠かせない音を出す道具です。

鐘は梵鐘と呼ばれ、基本的には、お釈迦様が説教をする時の合図として使われました。また、たくさんの煩悩は鐘の音で止まるという逸話もあり、これが、年末の除夜の鐘の108つの鐘に繋がっています。

木魚に関して言えば、単純に読経の際の節づけに利用したり、眠気覚ましのために使われます。水の中でも目を閉じない魚から転じて、木魚を叩いていると眠らないといったわけです。

音楽において多大な影響を与えたのは、もちろんオルガン(パイプ)です。オルガンは音楽を奏でるのに、もはやなくてはならない楽器です。そういう意味では、この楽器を広めたキリスト教の功績は、大きいといえます。

楽器という観点で言えば、仏教は叩く打楽器が多いといえるでしょう。メロディーを奏でるキリスト教と、リズムを整える仏教という違いが見えてくるかもしれません。

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クリスマスといえば、誰もが心躍らせる一年でも特別なイベントです。恋人同士ですごす若者や、サンタクロースからのプレゼントを待ち望む子供たちなど、世代でもクリスマスの過ごし方はまた違います。

クリスマスとはもともとキリスト教における、イエス・キリストの誕生日とされる日で、12月25日に祝われます。救い主であるイエス・キリストが、この世に誕生したことを祝い祈りをささげるのが、本来のクリスマスの過ごし方です。

しかし、日本では、完全に本来の意味を通り越して、一大イベントと化しています。完全なる宗教的な意味合いの日ですが、どちらかといえば盛大に盛り上がって楽しむ、というのが先に来ているんです。

こんなに盛り上がる日にまで成長したクリスマスですが、日本は仏教徒が多いといわれる国です。仏教の教祖である釈迦が生れた日は、どうなっているんでしょうか?本来なら、クリスマス以上に盛り上がってしかるべきです。

仏教におけるクリスマスのような日は、一般に花祭と呼ばれます。釈迦がこの世に誕生した4月8日を、生誕記念として寺社・仏閣で、儀式が開かれるのです。

しかし、クリスマスに比べて、誰も知らないのは何故でしょうか?もともと、花祭はお祝いごとというものではなく、仏教に触れる機会を増やす意味で、お寺等で開かれる厳かな儀式です。

商業的要素がほとんどないので、あまり知られてはいないのかもしれません。まさに、宗教行事という形でお寺で開かれるため、あまり人目につくことはありません。

クリスマスは、人々に広まるための工夫が多くあります。まずは、歌です。クリスマスソングが、洋楽・邦楽問わずたくさんあり、その時期になると流れ出します。

また、サンタクロースはもともと聖人である人物が、夜中に貧しい人の家に、プレゼントやお金を施した伝説が元となっています。それが転じて、クリスマスの夜には、サンタクロースが家々を回り、プレゼントを届けてくれるという形式が定着しました。

仏教の花祭もこのような物語や、ポップな仕掛けが沢山あれば、人々に広まるかもしれませんが、宗教行事であるゆえにそう簡単にはいかなそうです。

なんといっても、サンタクロースの赤と白はコカ・コーラ社がイメージを作りだしたといわれます。かなり商業色を強くしなくては、やはり一般には広まらないからです。

とはいえ、クリスチャンが多いアメリカでも、今は、ハロウィン・サンクスギビング・クリスマスと続き、冬の一連の盛り上がるイベントと化しているところあります。

本来の意味を考えれば否定的な見方をする人もいますが、厳しい寒さと、寂しい気持ちになる冬の季節に、一年で最も盛り上がるイベントがある、というのは幸せなことかもしれません。

ただ、多くの日本のカレンダーには、仏教における釈迦の生誕祭は載っていませんが、クリスマスは載っています。同じように偉大な宗教的人物が生れた日なのに、仏教はあまり浸透していないのは、少しさびしい気もします。

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仏教における煩悩は、キリスト教では原罪がそれらしきものでした。もちろん、宗教が違えば、概念は全く違いますが、なんとなく対応するものというのはあるものです。

そう考えていくと、仏教における最終目標である悟りを開くという概念は、キリスト教において同じようなものはあるのでしょうか。

そもそも悟りを開くというのは、長い修行の末に仏になるために必要なものです。さらに言えば、仏教には自力仏教と他力仏教があることはご存知でしょうか?

自力とは文字通り、自力で修行にはげみ成仏するための仏教です。このためには、人は社会生活をすべて捨てて出家して、厳しい修行に励まなくてはなりません。

しかし、誰もが自力でこんなことが出来る筈もありません。あまりにも厳しい、仏教修行の反発として現れたのが、他力仏教です。他力本願の四文字熟語のもとにもなっています。

これは、簡単に言えば念仏仏教であり、だれでも南無阿弥陀仏さえ唱えれば、成仏できるとされる仏教です。かなり簡略化されたものですが、仏教に失望していた人にとって、この他力仏教は受け入れられたのです。

他力仏教の凄いところは、念仏によってとりあえず極楽浄土へ行き、そこで修行しようよ、という後追い修行への道を開いた点です。現世で出家して修行するのは、大変な人でも、極楽浄土なら何の制約もなく修行にはげめるというのが本質です。

自力であれ、他力であれ、仏教の本質は最終的には自分自身で救いを勝ち取ろうという姿勢です。悟りを開くというのは、救いを求めることですが、仏教においては自助努力が要求されます。

救いを求めるという意味では、キリスト教も最終目標は同じです。悟りを開くと同じではないですが、似た意味でいえば、キリスト教では「悔い改める」ということがそれに当たります。

人間は原罪によって、もともとどんな人間も罪を抱えているとされます。そして、さらに神の子であるイエス・キリストがこの世に現れて、人によって十字架にかけられたことも悔い改めの必要性を高めました。

人間の身代わりになって、罪を背負って死んだイエス・キリストは、自助努力では救うことが出来ない人間の罪の奥深さを表しています。

仏教のように、修行すれば救われるという自助努力概念は、キリスト教にはありません。ですので、キリスト教では、神に対する信仰をより強く持たなくてはならないのです。

弱く、罪を背負った人間は、神への信仰を通してのみ強く生きられ、そして最終的に天国へいけるのです。かつて何かの罪を犯した人でも、洗礼を受けて神を信仰すれば、それまでの罪は洗い流されると考えられるのがキリスト教です。

どこまでも、自分の修行の力で救われようとする仏教と、神を信じることによってのみ救われるキリスト教、救いというポイントから見てもかなり違う二つの宗教の面が見られます。

しかしながら、念仏によって阿弥陀仏の力で極楽浄土へ行こうとする他力仏教は、祈りによって神への信仰を表明し天国へ行こうとするキリスト教と重なる部分がることはとても興味深いところです。

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