宗教は人が正しく生きる道を教えるものです。となると、人を殴ることや暴力をふるって傷つけることは言語道断です。
しかし、一つだけ殴ったり倒したり暴力的な行為をしても、一般的には許されるジャンルがあります。それが、スポーツとしての格闘技です。
ボクシングやレスリング、日本の伝統国技である相撲も格闘技のうちに入ります。しかし、これら格闘技は、認められているとはいえ人を殴ったり暴力的に倒します。
その人がクリスチャンであった場合、または、仏教徒であった場合、格闘技は教義上どのような解釈をされるのでしょうか?戦ってはダメとも言われそうですが…。
キリスト教の場合、聖書に興味深い記述があります。新約聖書のコリントへの手紙で、信仰生活を拳闘つまりボクシングに例えている部分が出てくるのです。
もちろん、ネガティブな意味ではありません。キリスト教にとっては絶対的な存在である聖書によって、ボクシングはそれなりに認められているという証しです。
実際、キリスト教においてはスポーツや勉強において人と競うことは、霊的な成長に繋がるのでとても奨励されています。つまり、自己鍛錬して格闘技で腕をためすことは悪いことではないのです。
フライ・トルメンタというメキシコの神父がいました。彼は、司祭として教会活動に携わりながら、教会の近くに孤児院を建てます。その孤児院の運営費をまかなうために彼は何をやったと思いますか。
そうです、格闘技であるプロレスです。メキシコはルチャ・リブレというプロレスが流行っていました。そこで、孤児院のお金を稼ぐため彼は司祭でありながら、覆面レスラーとしてリングにあがったのです。
彼の、格闘技をする目的は人を傷つけることではありません。プロレスをしてファイトマネーをもらい、孤児院のためにお金を使うことでした。闘いはその目的次第で、いくらでもその宗教の教義に則ったものになるのです。
仏教と格闘技との関係は果たしてどんなものでしょうか?武道=仏教のようなイメージがあるのですが、果たして関連性はあるのでしょうか。
実は、仏教発祥の地インドのインダス文明では、ボクシングと相撲の興業が行われているぐらいポピュラーであったらしいのです。
そして、お釈迦様はなんと武術の名手であったと言われます。釈迦の前世の物語を集めた「ジャータカ」には釈迦がタキシラで武術を学んだという記述があるのです。
お釈迦様が武術を学んでいるのなら、間違いなく仏教は武術に寛容であると思われます。というより、格闘技は仏教の精神の鍛練と似た部分が多々あります。
武道や格闘技自体が、相手よりも自分との闘いという部分があります。さらに、肉体と精神を酷使する格闘技のトレーニングは、他のスポーツよりも過酷です。
クリスチャンであっても信仰の篤い仏教徒であっても、戦うことは禁じられていません。しかし、理由や目的によってはその宗教の教義を裏切ることになります。
それは、格闘技をする目的に密接に結びついています。つまり、人を傷つけたり自分を誇示するために行う格闘技は、キリスト教であっても仏教であっても認められないのです。