無宗教だからこそ知っておきたい!仏教とキリスト教の違いとは

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普段から使っていたり、だれでも知っている言葉で実はキリスト教由来であったり、仏教由来であったりする言葉は多いんです。そこで、両宗教由来の言葉や、四字熟語などを簡単にまとめてみました。

キリスト教といえば、聖書です。キリスト教の場合、この聖書に出てきた表現が、そのまま有名なことわざのようになっているパターンがほとんどです。

「豚に真珠」もそうです。価値のわからない者に、貴重な物を与えても意味がないという意味のこの言葉、実は聖書のマタイによる福音書の次の一節から来ています。聖なるものを犬に与えてはいけません。また、豚の前に真珠を投げてはなりません。

「目からウロコ」も同様に新約聖書の記述が由来です。キリスト教を迫害していたパウロが、イエスの声を聞いて回心する有名な場面において、目から鱗のようなものが落ちたと表現されています。

「求めよ、さらば与えられん」は、行動の大事さを表した有名な言葉です。夢を追って頑張っても、その努力が報われるとは限りません。しかし、求めて行動を起こさないとそのチャンスすら与えられないのです。こちらも、マタイによる福音書から来ています。

最後に「ハレルヤ」という言葉を紹介します。ゴスペル音楽のみならず、日本でもポップス音楽の歌詞に使われているくらいメジャーな言葉です。しかし、意外に意味を知らない人は多いかもしれません。

ハレルヤは、古代の言語であるヘブライ語で、神をほめたたえよ、を意味する言葉なんです。主にキリスト教において使われますが、それ以前にも人間が、神という存在を常にリスペクトし続けていることを表すための、古代から伝わる言葉といっていいでしょう。

次に仏教由来の言葉です。ことわざやその他の言葉で仏教由来のものはかなり大量にあります。ですので、ここはあえて四字熟語にポイントを絞ってみました。

「因果応報」は、もともと仏教的な意味では、前世における行為の結果として現在の幸・不幸があるといういみです。輪廻転生を前提にした言葉と言えます

転じて、何か悪いことをすれば、悪い結果が返ってくる。良い事をすれば、良いことが起る、というような原因と結果の法則をシンプルに表した四字熟語として使われています。

「言語道断」は、ネガティブな印象がある四字熟語です。もともとの仏教的意味は、根本的な真理は言語では説明しつくせないという意味です。悟りを開く修行も、言葉では語れないほど深いものという意味もありそうです。

転じて、あまりに立派過ぎて言葉にできない。また、あまりにひどすぎて言葉にできないという両面の意味合いになっています。現在、良く使われるのは、後者の意味合いが多いためネガティブな印象があるかもしれません。

「唯我独尊」は、あまりよろしくない暴走族などの旗に書かれていたりします。この本来の意味は、世の中で自分ほど偉い人間はいない、と自惚れる独りよがりの態度を指します。釈迦が生れたときに、この言葉を話したというのは有名な逸話です。

「他力本願」も仏教由来の四字熟語です。よく使う意味合いでは、他人の力に頼って物事をなすことを指します。極端ですが、替え玉受験など不正行為もこの言葉で表現できます。

しかし、この他力本願という言葉、仏教の本来の意味はまったく異なります。仏教的には、阿弥陀仏の願い(本願)のみに頼って、往生(成仏)することを願う信仰における態度のことです。あくまで、信仰の姿勢であることがポイントです。

仏教にせよキリスト教にせよ、その宗教由来の言葉が、本来どのような意味を持っていたか知ることは、とっても興味深いことだと思います。

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イスラム教やユダヤ教やヒンドゥー教などで宗教的にタブーとされていることは、結構ありそうです。豚肉を食べてはいけないや左手で食べてはいけない、などぱっと思いつくのは食に関するタブーです。

キリスト教や仏教においても、食のタブーやその他のタブーはどんなものがあるのでしょうか?意外とタブーは少ない気もしますが、調べてみましょう。

まずキリスト教においては、金曜日に肉は食べないことや復活祭(イースター)の前は、断食するなど、食の制限に関する規則的なものがいくつかあります。

しかし、かつての厳格な時代はともかく現在は、これらの制限もかなり緩和され、いつもより少なめの量で我慢するといった感じになっています。

仏教においては食事のタブーはいかがでしょうか?じつは、仏教にはこれといったタブーはないんです。あえていうなら殺生するなかれという戒律くらいでしょうか。

しかし、殺生するなかれとはいえ無益な殺生という意味なので、特にタブーということでもなさそうです。ただ、仏教における食の制限のポイント次の一点です。修行の妨げにならないようにすること。

そういう意味では、酩酊するほどに酒を飲んではいけない。やニンニクをたくさん食べてはいけない。などが、いわゆるタブーに入るのでしょう。ニンニクは、口臭を気にして人付き合いを控えてしまい、大切な教えを聞き逃さないようにという理由です。

キリスト教が神やキリストとの関係性の中でタブーがあるのに比べて、仏教の場合はひたすら修行と自分との関係性の中でタブーが発生するという点は、とても面白い点です。

食以外のタブーでは、キリスト教の場合は、同性愛・中絶・避妊・離婚などがあげられます。最近はかなり市民権を得ている同性愛も、キリスト教とくにカトリックの場合はかなり否定的な見解を出しています。

同性愛は、性的逸脱と考えられ宗教上の罪と見做されるからです。とはいえ、現在では一人一人がもつ人権は十分に尊重されなくてはいけない、という立場に徐々に変わりつつあります。

避妊や中絶に関しては、キリスト教は完全にタブー視しています。これは、避妊や中絶を一種の殺人と見做しているからです。与えられた生命、与えるべき生命を意図的に立つことは、神の意志に反する行為なのです。

聖書の中でイエスは、「二人が結ばれると一体になる」という言葉で結婚を表現しています。この言葉を根拠として、結婚とは神様が引き合わせてくれたものという考え方を持っています。だからこそ、それを離すこと、つまり離婚も禁止しているのです。

このようにキリスト教のタブーを見ていくと、かなり保守的な位置にあると考えられます。しかし、この超保守的立場ではm多様化する現代に合わなくなっていると言わざるを得ません。

一方、仏教においては、同性愛などを禁じる見解は特にありません。ただ、「不邪淫戒」という戒律でみだらな行為はしないようにというざっくりとした教えはあります。

さらに、避妊などに関しては「殺生するなかれ」がやはり戒律として有効ですが、それでも状況によっては容認されます。

タブーに関していえば、仏教は一貫して、修行や悟りの邪魔にならなければ容認という立場にありそうです。しかし、世俗から解脱するのが仏教の最終目的だとすれば、現実世界のすべてはある意味タブーであるともいえるかもしれません。

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キリスト教には、信者になるとつけるもう一つの名前があります。信者になるには、洗礼という儀式を行うのですが、その際につける名前を洗礼名といいます。

主にカトリックが中心ですが、この洗礼名多くは過去に偉業をなしとげた聖人や、天使の名前をつけるのが一般的です。例えば、マリアやヨセフなどの名前は洗礼名として人気の高いものです。

例えば山田太郎さんが洗礼名をつけるとしたら、ヨセフ・山田太郎という具合に、洗礼名・氏名という順番で表記されるのが一般的です。

洗礼名としてつけられた聖人は、その人個人の守護聖人となります。さらには聖人は個別に記念日を有しており、国によってはその記念日は、個人の誕生日より盛大に祝う場合もあるんです。

ただ、同じキリスト教でもプロテスタントの場合は、聖人を崇敬する習慣自体がないので、洗礼名の制度もありません。すべてのキリスト教ではないという部分で注意が必要ですが、洗礼名というのはなかなか興味深い制度です。

そこで気になるのが、仏教にも洗礼名のように個人がもらう名前はあるのでしょうか?答えはあるです。戒名というのがそれに当たります。戒名といえば死んだ後につけられる名前と思われがちです。

しかし、本来、戒名というのは授戒した人(仏門に入った人)にだけ与えられる名前なんです。つまり、仏教の出家修行者が僧侶になった証しとしてもらうのが、この戒名という名前なんです。

特に日本において、戒名といえば、死後お墓に刻まれる名前というイメージがあります。これは、日本人の死生観が変化したことによって生じた習慣です。

もともと死んだあとについて、日本人はあまり頓着しなかった歴史があります。しかし、徐々にその部分に注意が向けられ、最終的には死んだらすべての人は基本的には成仏する、という考え方に変わったのです。

成仏するということは、故人は仏になるので、理論的にはあの世での名前が必要となります。ということで、出家修行者でなくても全ての人は、死んだあとに戒名が授けられるのが一般的になったのです。

戒名に関しては、仏教の宗派によって色々な名前が存在します。しかし、キリスト教と比べて問題視されるポイントがあるんです。それは、支払ったお金によって、付けられる戒名のランクがあがるということです。

そうです、戒名にはお金がかかるのです。これが、仏教における名前付けの問題点ともいえます。キリスト教の場合は、信徒になった段階で洗礼名を自分で自由に選べて付けられます。もちろん無料です。

しかし、仏教の戒名の場合は、徳の高そうな名前はお金がそれだけかかるという訳です。これも歴史をひも解くと、理解できる点があります。

もともと、仏教には「院号」と呼ばれる個人がどれだけ仏教の戒律を守り、よく寺院に貢献し人生を全うしたかをはかる基準点のようなものが存在しました。これが高い人は、特別に戒名を授けたりしたのです。

しかし、あまり公益活動なども行わず寺院に貢献しなかった人の遺族の中から、それでも院号をもらいたいという声が多く出てきたのです。その際に、寄付金を多く奉納すれば、具体的な活動がなくても、院号をあげるという具合にしたのです。

そこから、お金さえ支払えば寺院と仏教に貢献したとみなされる、拝金主義的な価値観が始まってしまったのです。洗礼名と戒名は似たものですが、実体はずいぶん違うものになっているのが、興味深いですね。

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