無宗教だからこそ知っておきたい!仏教とキリスト教の違いとは

W610Q75_54

今の時代、インターネット抜きには社会を語れません。かつては、辞書や図書館に行って調べたり、また経験豊富な人に聞いたりしていた分からないことも、ネットで検索すれば一発で出てきます。

また、日本国内どころか世界中の人々とインタラクティブに繋がれるSNS(ソーシャルネットワークサービス)も、若い人を中心に隆盛期を迎えています。

フェイスブックやツイッター、または独自のホームページなどを持って、自分の思想や意見を表明することもいとも簡単になっている現在、だれもが表現者と言ってもいいかもしれません。

キリスト教や仏教などいわゆる伝統的な宗教も、当然インターネットとの関わりを避けるわけにはいきません。そこで、キリスト教や仏教は果たして、ネットをいち早く取り入れて活用しているのかどうか、比較してみましょう。

世界中の人と繋がれるというインターネットの特性を考えると、世界で最も布教されているキリスト教は最も相性が良いはずです。しかし、日本においてはそこまで活用されているとは言い難いかもしれません。

日本において、キリスト教がインターネット関連でニュースになるのは、バチカンのローマ教皇がツイッターでつぶやいた言葉が多いかもしれません。権威ある人が、ツイッターを使っているという意外性にスポットライトが当たるせいでしょう。

それ以外となると、個別のキリスト教の出版社やマスメディア関連は、それなりにインターネットを活用してホームページなどで発信していますが、いかんせん影響力は弱いです。

というのも、日本においてのキリスト教の信者数は大変少なく、また、かなり高齢化しているというのがあります。高齢者は、一般的にはインターネットをあまり使いこなせません。受け手が少なく、さらに高齢化している現状では、SNSの活用などはかなり難しいといえます。

キリスト教が、いまだインターネットを十分に布教活動に活用できていないのと対象に、仏教は少し面白い動きがありそうです。

先入観ではありますが、仏教の寺社・仏閣は伝統を大事にするので、インターネットは避ける傾向にあると思われがちです。なぜなら、インターネットは俗的すぎるからです。

しかし、結婚式や葬式、夏祭りぐらいでしか仏教や寺社との関わりがない日本人は、仏教に触れる機会はあるが関心を持つまでには至りません。チャンスはあるが、活用できていないのが今まででした。

そこで、若い僧侶たちが教派の枠組みを超えて結束し、インターネット上で様々なイベントやコラム、サービスを行う「彼岸寺」というサイトが今、話題になっています。

コンテンツも様々で、仏教なう、お坊さんLINEスタンプ、お寺ごはんなどなど、特に若い人が関心を持ちそうなネタを積極的に配信して続々と閲覧者を増やしています。

直接お寺に訪ねるほどハードルが高くなく、何となく気軽に閲覧できるインターネットの特性をうまく利用したサイト作りは、キリスト教よりも一枚上手を行っています。

別のインターネットサービスですが、最近では、僧侶の宅配サービスなどを展開しているところもあります。そう考えると、仏教は伝統的宗教の枠組みを今、越えつつあるといえるかもしれません。

W610Q75_53

これからの宗教を考える上で重要なのは、端的に言えば信者数です。そう言う意味では、あくまでも日本においてはキリスト教の信者数の少なさは、かなり危うい懸念事項です。

しかし、日本において仏教信者は一見多そうに見えますが、実際はそう安心していられません。葬式仏教ならぬ、お墓や葬式の時だけ活用するセレモニー的な存在に成り下がっているからです。

そう考えると、信者数云々の前に、日本人の土壌に宗教はなじまないのではないか、と考えたほうが腑に落ちます。なぜなら、今現在もキリスト教の信者は、韓国や中国において伸び続けているからです。

同じアジアで近い国なのに、日本との違いはなんでしょうか?日本はよく言われる八百万の神が好まれて、一神教の神は好まれない、そんな意見もあります。しかし、実際は、中国も韓国も伝統的宗教によって支配されてきた歴史があります。

そんな国にとって、自由闊達な雰囲気のあるキリスト教は、平等でとても魅力的に映ります。日本も、昭和初期の軍国主義時代に神道を強要された歴史がありますが、敗戦により一度リセットされています。

そこから、天皇が象徴になることにより、神道自体の勢力は一部分にとどめられました。どこか緩い日本人の宗教観は、この戦後に始まったと言ってもいいかもしれません。

クリスマスを祝い、初詣に神社にお参りし、お葬式は仏教で、といった具合に宗教をある意味うまく飲みこんでいるのです。しかし、実際に信徒として宗教を理解している日本人は多くありません。

そうなると、信者数に関わらず未来のキリスト教や仏教も、本質的には徐々に勢力を弱めていく可能性があります。少子高齢化によって、敬虔な信者はどんどんいなくなっていくからです。

とはいえ、日本人は、十字架をアクセサリーとしてつけて、クリスマスは国内最大の行事として祝います。これも、意識していなくても、キリスト教の宗教的行為であり、それを自然とこなしているのです。

仏教においても、例えば浅草の浅草寺には年間3000万人が訪れるのです。世界中のどの宗教的巡礼地でも、こんな人数が参拝に来るような場所は多くありません。

みな、お寺に行き、お賽銭を入れ、手を合わせて祈っているのです。これも、立派な宗教的行為に他なりません。キリスト教にしても、仏教にしても、触れる機会は沢山あるのです。

また、最近ではお坊さんの書いた著作や、キリスト教の修道女であるシスターが書いた著作が大ヒットしています。これらを、宗教書として読む人は少ないですが、書いている人は、信仰の篤い人々です。

年間を通して行う宗教行事の多さと、著作の大ヒット。これらをかんがみると、日本においてキリスト教と仏教は、潜在的な需要がとてもありそうです。

仏教は、若い僧侶たちがインターネットなどを利用して、若者にも分かり易い新しい布教活動を行なっています。テレビなどにも出始めていて、これから、どんどん人気が出てくるでしょう。

また、キリスト教に関しても、将来的に少子化によって移民などが増えると、クリスチャン率は一気にあがるでしょう。そうなると、外国の友人ができるチャンスも増え、キリスト教への理解が深まる可能性もあります。いずれにしても、両宗教の未来像は、そう考えていくと思ったより明るいのではないでしょうか。

W610Q75_52

時代と宗教の関係は密接です。キリスト教と仏教も江戸時代~明治時代と移り変わる中で、国の政治に取り込まれたり、また禁止されたりしながら、その立場を変えることを余儀なくされてきました。

今回みていくのは、まさに激動の時代昭和初期です。江戸時代というと、少しおとぎ話的な遠さがありますが、昭和となるともはや近現代です。今でも生き証人として、多くの人々がいます。

そして、総じて思うのは、昭和にあったあの戦争です。そこで、第二次世界大戦と太平洋戦争を通して、キリスト教と仏教はどのような位置にあり、そしてその後どのように変化したのでしょうか?

昭和初期は軍部が台頭して、軍国主義化した時代です。そこで、軍部が利用したのが国家神道です。神道を国教とし天皇を頂点に置くことで、教育や思想をコントロールしだしたのです。

そんな中、西洋の宗教であるキリスト教は、かなり厳しい立場に立たされることになります。1931年日本が戦争に突入する一つの事件が起ります。満州事変です。

この満州事変を境に、軍国主義化を強めていく日本ですが、ここでキリスト教に関する二つの事件が起ります。1932年の上智大学生の靖国参拝拒否事件と1933年の奄美のカトリック教徒迫害です。

どちらも、キリスト教という信仰をすてさせ、国教である神道を無理強いする横暴な政府の圧力事件です。その後1939年に宗教団体法が可決されたことにより、日本におけるキリスト教の団体は政府の管理監督のもとに置かれることになったのです。

キリスト教のカトリック教会もこの法案を受けて、靖国神社への参拝は宗教行為ではないので、国のためにやったほうが良いという見解を出します。それ以降、日本における最低限の地位を守るため、沈黙してしまったのです。

このようにして、昭和初期のキリスト教は、軍国主義と宗教団体法によって、無力化していきます。そうしなければ、団体自体が消されてしまいかねない時代だったのです。

仏教も、キリスト教ほどではないにしても、同じような状態でした。神道は公益法人なので様々な優遇を受けている傍ら、仏教はこれまた宗教団体法によって、かなりの制約を国から受けます。

元々明治維新で廃仏棄釈により、寺社仏閣等の焼打ちにあっていた仏教にとって、神道の国教化はさらなる仏教の弱体化を招いたのです。

両宗教が息を吹き返すのは、もちろん戦後です。戦争に負け、GHQによって宗教団体法は廃止されます。そして、1946年日本国憲法によって、信教の自由が保障されたのです。

これによって、キリスト教の場合、多くの宣教師が日本に入り、様々な布教活動の結果信者数は飛躍的に伸びました。仏教も息を吹き返し、この時期は特に、法華経系の新宗教団体の創価学会や立正佼成会などの団体が新しく生まれました。

いずれにしたも、昭和と宗教を語る上では、戦争は欠くことはできません。敗戦によって、宗教が息を吹き返すのも少し、皮肉ではありますが時代の流れが変わったひとつのポイントでしょう。

このページのトップヘ